黙祷してると涙が出てくるお年頃になったようだなぁ……とおっしゃるご同輩、こんにちは。館長です。
涙もろくなった、というだけじゃなくて、やはりいろいろ知識もついたからということもあるようです。
平和を願うにも、正しい知識は不可欠ですよね。
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コロナ禍 長崎原爆の日の長崎新聞の工夫が話題に
今なら “AR記念式典” みたいなことができるかもしれませんが、こうしたアナログもいい。老若男女できるからいい。
核兵器はきっと無くならないだろうけど、せめて使われることのないよう、目を光らせていてくれ、頼んだぞ!(人まかせ)
浦上天主堂
ジョー・オダネル
1945年 長崎原爆投下の生存者
「ここは私たちの家があった場所で、遺体は母のものかもしれません」
リンク先の表記には
「少年は長崎の原爆投下による火傷で覆われた弟を運ぶ」
とあるが、実は……
今年も夏が近づくと街に現れる原爆関係のポスター。決まって使われる写真の中で、最もよく目にする1枚が、下の「弟を背負う兄」のもの。
モノクロでわかりにくいのですが、幼い弟の頭にはべっとりと血のりがこびりついています。誰もが「この男の子が重傷を負った時の出血だろう」と思うでしょう。
現に写真を撮った山端庸介自身もメモに 「長崎駅付近8月10日朝7時頃。両親を見失った少年兄弟、弟の方は頭部の負傷による出血で、それも暑さのせいでヒカラビている。もちろん顔を洗う余裕とてないのであろう」 と書いています。しかし実はこの血のりの多くは、男の子の母親のものでした・・・
写真の兄は井上教通さん(当時18歳)。背負われているのは弟の正喜さん(当時7歳)。
(中略)
11時2分、ちょうど正喜さんの治療中に原爆が炸裂し、正喜さんについていた母親はその瞬間、正喜さんを守ろうと覆い被さった時に割れた大量のガラスが母親の背中に突き刺さりました。
写真の血のりは自分の負傷の出血よりもその時したたり落ちた母親の大量の血がこびりついていたというわけです。
その後、負傷した母と弟を連れた教通さんは、父の実家である池島へ渡りますが、母スマさんは着いたとたん安心したように息をひきとりました。
水を欲しがり続けた弟正喜さんも一週間後の8月16日「ああ、おいしい」と水を飲んだ後、亡くなっています。
原爆投下を正当化する人は、どうして正当化できるのか僕に教えてほしい……
そう昔から思っています。